昭和54年 8月1日 月例祭
七月いっぱいの、おー、夏季信行も、無事、昨日をもって終了させて頂きました。もう本当にこのお広前が、もう一時の御祈念きっかりに、われるようないきよいで、それこそ(ねっかんねんり?)ともうしますかね、もう、本当にしさまじい御祈念が一ヶ月間、続けられました。こんどの(せきをこむ)んー、御祈念の(心?)を、ちょうど教祖様が、先月の三日に、目の手術のために、岡山の病院に入院されました。今年、えー、退院がおできになられ、また、(仏教の?)御用がおできにらられるようにという祈り願いを、一心にして、もう本当に皆さん一人一人の、あそのー、熱意のこもった、お届けを毎日させて頂いて、おかげをこうむらせて頂きました。
えー、昨日、あの、おー、研修のときに、いー、(さかね?)先生が今朝から朝の御祈念に御神願を頂きましたと。合楽のお風呂から(笑い)金光様がでてきよるところ。はー、もうおかげをいただきよるんじゃろうと、まーいうならば合楽のまっいうならば、まっ私達からしてみれば一生懸命なんですけれども、まっ(ぜんきょのものが?)祈ったになったにちがいありませんから、もーささやかな合楽の祈りを金光様が受けてくださったんだなというふうに感じさせていただいたんですけれども、今日、(井上とも?)先生からお母さんのところに、電話がかかってまいりました。
それは、もう、おかげをいただかれまして、大変このほうたいをとられたすぐその直後に、大変よく見えますとおっしゃったというお電話、そして、えー、順調にいけばこの八月の三日には退院のおかげを受けられるという電話がかかってまいりました。皆さんにご報告をもうしあげます。えー、これからとても(なごなご?)えー、私どもしんぽう者といて、えー、祈りを、おろそかにしてはならないと思います。
えー、これは昨日の研修の、んー、三十一日の御礼しん話会に、岩井ちえこ先生が発表しておりましたが、夏季信行の、御礼の御祈念をさして頂いておったら、たくっさんの、ぶどうが、箱にいっぱいつめられてあって、もう(ふたくさ?)ばっかりつめると、いっぱいになるという、そのお知らせを頂いた。そして、それがいみがわかりませんでしたから、末永先生にそのことをおうかがいさせていただいたら末永先生が、まー、私どもがそれこそいっぱいの、信心修行さしていただいたと思うけれども、まだかけておるところがちよこっとあったんだよ。
それも、(これがまんばい)だけではないこの、たくさんのぶどうをいよいよあの坪に入れ、水を入れそして、これにみっぷうをしてこれがおおぜんな、ぶどう酒とまでなるほどしのおかげをいただかなければならん、ということであろうと、末永先生から聞かせて頂いてはぁーもう夏期信行がおわったからこれでいいということはないと、これからが、いよいよぶどうで食べてしまうか、ぶどう酒として頂くかということはこれからだということを、感じたと言う発表をいたしておりました。(まさしく)そのとうりであります。
えー、ただいまあの、おー・・放送しておりましたが明日は、(せきをこむ)親教会の夏の祈願祭でございます。えー、いつも三日でございましたけれども去年からあー、二日のにかわりましたから考え、思い違いのありませんようにどうぞ明日はあー、あちらは、十一時からのおまつりですから、御参拝、またできないかたは、事務所までおはつおをでもことずけに、して、いただくようにおねがいいたします。
今日は、(せきをこむ)たくさんのーおそなえの中に、もうとくに目だったのは、メロンでしたおぉーきなメロンが、しかもあのおおもりに、何台も何台もでておりましたです。
メロンといえばもー果物の王者といわれるほどしの、おーんー、味わい、風味、ね、それから、あーその、美味しいという点においては、なにがなんという誰がなんというても、やはりメロンに勝つ味のものは、(こうい?)をもつものはないだろうとおもいます。
ね、ほかにもまくさんくだものはございました、くだものそれぞれに、やはりその味わいはありますけれども好物をつけるならば、やはり、メロンは、果物のまー、なんていうですかね、えー結局王者だと、味、かっこ、すべての点にそういうものをそなえておるという事でございます。ところがメロンというものは、夏の日のかぼちゃ畑のように、わぁーとひろがったり、たくさん、ここにもなるそこにもなるということはないです(てもたいへんゆうそう?)ですけれども、そのたくさんはなかなかできない、だから値段もいつも最高の値段でありますようにです、あたくしは、そういう値打ちは値打ちとして、わかる信心をいただかなければならないと思います。
昨日、おー、これもーさ、御礼信話会の中でー、竹内先生が、お話をもうしておりました、その前の晩に皆さんもごらんになったでしょうか、テレビで、えー、(ままべっとの生涯?)、えーだいなんというだいだったでしょうかザ何とかていうような、え?え?、うんなんかあげなんふうな名前のははははっ(笑い)とにかくまほめっとの生涯をえがいた生涯でしたけれども、えー、それを聞きまして丁度九時の御祈念終わってからでございましたが、私も、おー、十二時ぐらいまでありましたみせてもらいました。
でみんなが見てるんですそれで、そのことのかんそうを私は皆に、きかせていただいたんですけれども、竹内先生がこういうことを申しております。もー、見ておれば見ておるほど、聞いておれば聞いておるほど、本当に合楽くの信心のすばらしいこと合楽理念のすばらしいこと、それは、キリスト亡くなられて六百年ののちにいー、あられたかただそうですねマホメットという方は、ま、その当時だから仕方がないとはいえ結局、あの、いうならば、程度の教えであった。
いうならば、合楽理念に元ずくということになったら、本当に天地ほどの開きを感じるといってました。皆さんどうでしょうか。ね、ね、天地ほどのひらきをいうなら価値観からいうてもそういうかんじだとま、いうておりましたが、ただ、おどろきは、ね、あの時代にその程度の信仰をです、皆が命をかけて、布教にあたったという事実はです、もう、敬服に値するという意味のお話をいたしておりました。
ね、いかに金光様のご信心がすばらしいそのなかでも、おー、合楽での信心がほんとうにすばらしい、有り難い、と、ま、感じておりましても、それを自分だけの物にせずに、自分の周辺にも、ね広げていこうとするその意欲というものは、願いという物は、ね、なみなみのことではできない。
ね、それこそ、一生懸命、一生をそこに命をかけると(わいますね?)一生懸命とは、一生を命をそれに懸けるという、なら、お道のおー、教師を心がけていただくのは、一生を金光大神御取次(?)のために、奉仕する。人がいよいよ助かることのためにほうしをするというのが、あー、金光教の教師の先生なんです。
けれどもね、命がけと命をかけてということになると、やはりもういっぺんお互いの信心を、振り返ってみなければならない、ただお話が有り難いただおかげがあらたかな、というだけで、合楽合楽というておるあいだでは、本当のことではないということをね、お互い(?)を反省してみなければいけない。
これも昨日の研修のときに佐田先生が発表の中に申しておりましたが、教祖の神様のご信心がまだ先のころ、いよいよ助かる助かると教えを頂いてもうその、助かった人のところで人が助かる。それで次そこが出社のようになったり、教会のなら形をとった時代があった。別の形式を(ふんで?)ということもないだろうけれども、その(?)に教祖様の御信心を、ね、いうならば、まー、なんともうしますか、教祖様があーそのーんーしょけいをされなさるというわけじゃないでしようけれども、そういうことになるという噂がぱっとちったんです。
そういうことがあったそうです。時代が。そしたらね、その(出だし後?)とゆうかその金光様の信心が有り難いというかそこのこのまー(でだしんとこのが?)でけた、その(しさく?)のほとんどが、金光教の信心を(やめた?ひろめた?)と、ね、こちらの衣類をよごしてはならない。という、いわば、ことからでございましょう。だから信心は、おかげをうけたからといったようなことで、えー、なかなか命をかけよといったことは、もうあの世これ世を通していうならば、金光大神のお取次によって、いうなら、合楽理念をもってしなければ、あの世でも本当の助かりはいただけいないんだという、いうならば確信をようなものがだんだん育ってこなければ、そこまでの信心を、頂かしていただかなければ、勉強すればするほどに、頂いてみれば頂いてみるほどにメロンとほかのくだもののそういをね、感じるように、だいいち香り風味が違う。
ね、口当たりが素晴らしい、味はもっとほかのくだものでは、えーとうていおよばないほどしの、味あいがある。ところがそれがたくさんやすいとねだんがたかいというのがきずである。けれどもやはり高級ないうならほかのくだものにんーぬきん出たあいあいをもっておる。あーあたくしはそれがきょうのメロンのたくさんのおそないを頂いて、ははー今日はいっちょ、合楽の信心というのが、本当にメロンのような信心であるなということをわかってそれを頂いて、それを命をかけて、いうならば広げてでもいこうというような信心にそだって頂きたいということを思ったんです。
今日、今丸少が、長期合宿をいたしておりますそれも、おーバンド組みのこどもたちばっかりです、バンドの皆さんばっかりです。昨日幹部の「もりやまくん」がそれから、あきながよしろうさんところの「長男まさよさん」二人が(?)もー、呼吸混乱でたいけんくるしんどる、子供達がそせれを(?)お取次(?)私ももういろいろとおー御神米を頂かしてみたりみんが御用さしていただきましたら、今朝から、あーもりやまくんどう?どうだっただろうかとわたくしが聞きましたら、もう今朝から、あの、朝の御祈念が終わりましたらすぐきたので、親一人子一人の性格でしょうかね、ご飯でもお母さんが入院しとるから自分でご飯をたかなならんといったような状態。
そして毎朝新聞くばりをやっている。それで一生懸命ここへバンドのれんしゅう信心のけいこに、まーかよってくるわけです。それころもう今朝から、もうご飯もいただかずに(
? )おかげをいただいてまいりましたと、こう。(?)関心ということばをこういうときにつかうんじゃないでしょうかね。まーだそれこそ(?)か、(?)かんなかでしょうかね、新聞くばりをしながら、朝のごはんを自分でたきながら、そして、えー、御信心も、ならバンドの、おー御用もさしてもろうとる。そして今日はまー普通どうりに今日は久留米でえー井筒屋を中心に、あのしゅうの商店街の(?)とか式典がございましたんですね。その式典に、いー、ここの丸少が、あーこられて、えーほとんど(?)頂きました。 もう大変あちらでもまーよろこんでいただいたということでしたけれども、たくさんの人たちが見物されてもう、あのー、おー、おー、バンドの子達はどこかどこかというて皆がバンドの先生はあたくしだけでも六人のひとからきかれました。であー、合楽教会の丸少ですというたら、もうたまがっておられた。ということでございますが、本当に合楽示現活動の、おー、まー一回として、おかげをいただいたことでございます。帰ってまいりまして、まるっきり合楽色いっぺんだった。
第一大将が市長さん、合楽のご信者さんだというわけです。それからなんとかテープをきるとが、「なかざわけんぜん」んーの社長、もう八十ぐらいのおばあさんなんですけれども、がそのテープを切られた。そして合楽のバンドがしゅうしそのそれをリードさしていただく、バンドの御用をいただいたとこういうのです。
それから、かえってまえりましてからまたわたくしがおどろいたことなんですけれども、今朝からそのもりやま君と二人、んー、秋永まさよさんが、具合がわるい。両親がきのうからきておりましたから、こりゃもうたいへんひどいもんですからもう、今日はあのつれて帰らしてもらおうとお届けをしました。だからわたしが、つれてかえることはいいと思うけれどもね、本人の心まかせにしなさいよ。と。というておりましたら、んーおかげいただいて今日、まさよさんが昼からでてきた、そして自分の(?)その御用で今日さしていただくことができた。体の具合はどうだったかといったら、それがおかげを頂いて、あのー(笑い)出てきましたというおとどけがあったんです。
どういうふうに思います。ね、丸少の少年少女がです、そういうたとえばあーことのばわいであってもね、一つの使命感というようなものを感じたんではないでしょうか。ね、わたくしは合楽の、丸少が、しかもだいじなバンドの御用をいただいておるんだ、きょうはこういう御用があるんだということにたいして一心にその御用にお使いまわしいただいていることを、しゅういの子供達も(いなう?)なら、本人もふっと祈ったことでしょう。
ね、しかもその御祈念がおわったら自分のその(?)の新聞くばりに北野までもういっぺんかえってそしてもういっぺんかえってきて、はー、というような修行をさしていただきながらです、信心をすすめていっておるんです。
ね、(?)たちにおかげのごりやくにというてもわかりませんでしょうけれども、ね、合楽の信心の根本ともいわれるようなところに、取り組んでの信心のけいこを丸少ながらさせて頂いておるということは、しかもそういうね、使命感かを、おー、ここえに頂き感じながらの信心、この人にはこのままそだっていったら、今日わたくしがゆう、ね、合楽理念のすばさが子供のときから身に付いてくる、(ちゅうこと?)になってもう、人間の助かりは、この合楽理念をもってするほかないというような、確信が段々つよなってくる。そこから、ね、命をかけての、いうならば合楽、理念の、布教というか、合楽示現活動に参画させていただくということになるんじゃないでしょうか。
合楽示現活動参画ということはもう、そりゃ、もう(日々?)いうておることでございますけれども、参画さしてもらうということは、預からせて頂く、か、は、かい、は、そんなかにわたくしが(家業?)するというのではなくて加入させていただくというのでございます。ですから加入させて下さいと願う時にです、どういうことがよしあっても、ね、ひるむことがない、どういうなんぎに(?)局面しましても、ね、それでへこたれるようなことのないというようなあー、心の状態がいただけて、そして(?)をあずからせてください入らしてくださいということになるのじゃないでしょうかね。
お互いそうゆういみで、丸少の、というような(?)でね、あらたなきもちで合楽の信心が合楽理念をもういっぺんいただきなおして、そして本っ当にすばらしいという、ね、香りから言うても味からいうても、ね、もうどういう点からいうても、なるほど宗教会の中での王者である、もう、合楽理念をもって、そのそれこそもー他の宗教では、およびがつかないほどしの、それを、合楽理念は(じゅうぜんのほしをとく?)というふうにもうしております。
昨日でした、(四時半に?)こうさがって、お風呂にはいる準備をしよりましたら、(広江先生が?)もうわたくしはたまがったっち。何がたまがったの?ちいったらかなえがもうわたくしはかなえがいうことにたいしてね、今朝からあーたキリスト教の(伝導者?)のかたたちがみえて、あのーまっ、(?)かなえがだまーてききよったがどのことじゃろかとおもいよったら、聞きよって、いいよることが、もうキリスト教は過去の宗教ですよちゅうゆうた。これにはわたくしびっくりしましたち。
もうまさしく過去の宗教です。ね、ただ、教えがあるとか、たくさんの教えがあるとか、ね、いうならば、歴史が古いとかといったようなことで、助かりにつながらない、ね、おーの、マホメットーのおーあれはーエジプトですかあちらでいうそりゃあおーもうーお国全体がそういう宗教ですから、せいじそのものもいうならば(?)の教えを持ってせいじはなされておる。その国がはたして発展しているか、争いがないか、というなではね、もうそれこそもー何前年もの昔からもーキリスト教のばわいなんかとくに(ちりちりあらうような?)争いがずーと続けられて今日(?)ということなんです。
これだけでもね、金光教の教祖様の信心というのは素晴らしい。打ち向かうものには負けて、じせつにまかせと。ならじせつにまか、その、まかせておけばです、いよいよこちらがあのー(いわいるばかに?)おわってしまうかというとそうではなくてです、ね、自分が助かるのではないそのおーバカにしたしとのたすからじもたすかりじとともに助かっていく(うち?)というものの、実験、を、ね、いわいるここでだまっておさめるということは、ね、それこそもうなんともいいようのない、メロンの(顔?)ににたような味、また味にもにたような味あいにかならず結ばれていくということであります。
あたし合楽の信心の素晴らしさとはそれだとおもいます。ね、ですからどうしてもね、その、お互いが実験する、実証さしてもらう。
今朝からの御理解に、いー、天地の親神様のお心というのは、自分が子供をもってみてがてんしてみよ。がてんせよ。と。神様が氏子の上を思うてくださる心をさとれよというあの御理解に基ずい、御信訓に基ずいての、御理解でしたが、悟るということなんです。信心とは。信心は悟りなり。(?)信心が分かればおかげになる。だけではなくてそれが悟りともなってくるときに、お徳になるということがいえるようになってくるのではないのでしょうか。ね。悟りでひらけてくるということはね、素晴らしいことなんです。
今日研修の時に今日は(?)女の先生ばーっかりでした。んー男ではんーもう(?)先生一人じゃん。まるっきり(かがむようなこと?)(笑い)かがむようちゆうても皆さんわからんでしょうね(笑い)(?)歌舞伎の芝居がありますよ。女ばあーかりで、今、今の言葉でゆうとおーなんちゆうでしょうかね、えーんーなんとか、おく、なんとか物語ちゆうのがありまでしょう、(ほくほく物語?)のようなもんですよね。
いわゆる主人の(おのえ?)というなが(いわふじ?)というーおそのーおー一番あの(?)であるためにそのおーいよいよそのーおーいじめられてその無念残念というてじらいをしす、そいで同じ月のそのおはつという、この人はだいたいはさむらいの娘、じじょうあってその(おだい?)のんーめい使いになっておるんです。ね、そのおー、おー、だんなさまが、あーそういう無念の中に亡くなりますから、そのかたきうちのおしばいなんです。ね、そしてもうひとつの(ほんかい?)をとげるだけではなくて二代目(おないめ?)としての、ね、あのーまっしょ、しょうかくをゆるされるおしばいなんです。
ね、わたくしいつもこのお芝居のことを思うときに、本当にとても(いわふししや?)もう悪、悪人の代表のようにもうしますようにもう(?)もう女のおしばいおしばいでねその(笑い)一番悪役なんです。けれどもその悪役がおったおかげで二代の(?)が誕生するわけですからね、(せきねさん?)でもやっぱそうですよ、それこそえーね、(やしうま?)のような恐ろしい女子がおったおかげで、それこそ(まつだやまでも?)あのまさおかの名前がのこっとんです。だからあの(自分に?)もし金光教の信心があったらもっと違う(笑い)助かりがあったんでしようけれども、まだ仏教ではそういうことができなかった。ね、他の宗教ではそういうような、まそれが当たり前のような、芝居になってくるような、ね、こと、の、いうなら今までの宗教であったというふうに思われます。
今日研修のときに、まそれころ(かがみわり?)のような(?)まいろんな先生がた今日はあーいつもは男の先生が正面に出るんですけれども、今日は(関係?)でしました中にです、今日はわたくしまとめてはおりませんけれどもというて、今村かずこ先生が発表しました。せんじつからしきりに、紫の色が安心と御理解くださるのが、どういう(わけ?)に紫の色なら安心だろうか?とこう思うておった。心に抱え続けておった。そしたらそこでえー高松かずこ先生とおーちえこ先生が二人でお話をしておる、今大変上等の(ぬかみそ?)をいただいておるんです、それで(ぬかみそ?)とは不思議なもんでね(なえきひとほど?)こう、ちがったものをみせつけない、手がかわっても味がわるくなる。その二人の(態様?)をきかせていただきながらね、本膳として心の中にひらけたものはどうゆうことであったかというとね、ね、信心の早道は悟ることだとおもうたちゅゆんですよ、ね、そこからしか今私が求めておる願っておる紫の色とか安心とかという(きょうち?)はひらけてこない。ね、あの悟るというのはそうなんです、道を歩きよってそれこそ明けても暮れてもどうすればしんとくが受けられるだろうかどうすればどういう信心になったら神様に喜んで頂くような信心がでけるであろうか、と、祈るに祈り思うに思うて歩いておるともう(ささぼの?)音を聞いても、それこそ仏教の悟りといのはあのハスの花がぱちっと開く音の、同時に仏様がたが悟りにひらかれるといわれております。ね、だから偶然ということではない、それに修行に修行をかさねていく、ね、そして、どうしたならばどうしたならばどういう信心をさしていただいたい、ならば、安心の心が生まれてくるであろうかお徳をうけるれるだろうかという心がいつも求めいわゆる求道に求道を続けていくところから本膳として開けてくる。ね、(井上先生が?)心の中に開いたのは、ただ(お神様の?)話を二人の先生がたが話しておるその話を聞きながらほっと心の中に開けたのは、ね、信心を頂くというわかるということはね、悟りを先にしなければならない、ね、悟りを開くということが信心をわかるはやみちだと、心の中に響いてきたというんです。信心信心がわかりたいわかりたいというておってもです、だから信心のわかるその根本になるものはです、ね、わかったからおかげをいただいてもね、悟ってひらけるところの信心にならないと信心にならんそれこそたのしゅうしてありがとうしてということになってこない。ここに一つの悟りが(?)開けたとたんにです、ね、ははー紫の色は安心といわれるが、ね、いうならばお寿司なんかでおしょうゆのことを紫というあの紫というしょうゆそのものはあの真っ黒なものであるその真っ黒なもの、いうなら黒い黒をそのものをです、修行といただくところに、紫のおかげがうけられるんだとまー次から次ぎ(?)開けてきたんです。
ね、皆さんが(?)わかりたいわかりたいというならばです、悟りを開くことが早道なんです。なら悟りは簡単に開けるもんじゃないそれこそ一生懸命お参りもする一生懸命強調する、ね、それこそ日参強調ね、ゆうなら信行家業の行に本気で取り組ませていただいておると家業の中にも(ぬけみその話と?)中からでも、渾然としたものがひらけてくるということなんです。日参です強調です。ね、そして合楽理念の実験実証日々祈り願わしていただいて、実験に実験を重ね、実証に実証をかさねていくところからです、私は合楽の本当の合楽理念の値打ち、というものをわかることがでけ味わうことができるそしてこういう(むるい?)の素晴らしい教えというものをです、これをいうなら自分の周辺にもひろげていかなければならないということろに一生をかけるというほどしの信心ができたときにね、はじめてわたくしは一生懸命ということになるのではないかとゆうふうに思うんです。ね、どうぞ皆さんの信心をもういっぺんといなおしてみてください。わたくしの信心がただおかげをいただくために一生懸命なのか、信心をわかるためなのか、ご神徳をいただくためには、と、明けても暮れてもそのことを願い続け思い続けさせていただくような中からです、本然として開けてくる悟りの道、その悟りの前には暑いもなかならなければ寒いもないただありがとうてありがとうてというみちが開けてくるんです。合楽の信心を本当にメロンのような信心だといいうる確信のもてれる一つ信心を頂いて頂きたいとおもう。どうぞ。